ごだっくのぽんぽこ珍道中

日々のネタやロードバイクの旅ログ的な、他人様の役に立たない日記を書いてます

自分がやってる事は、往々にして他人もやってる

言葉の芸術。こんなことわざをひねり出してみた*1。ぶりっ。

【二冊の広辞苑
一つあれば十分なものが無駄に複数ある様子、例え。

例えば、予期せず発生したトラブルをうまく解決して切り抜けるためには、過去の経験から蓄積された脳ミソDBから近いケースや応用できるケースを探して活用する事がまず必要だと思う。この繰り返しでDBは強化され、人は子供から大人になり、最後ヨボヨボになる頃には「生き字引」という栄誉を与えられるまでになる。こうして脳にデータが蓄積されていく過程は、達成感や満足感という心理体験として自覚する事が可能であり、その瞬間は人に非常に大きな幸福な気分をもたらしてくれる。

しかし、そんな単調な作業を繰り返す事が本当に必要なのだろうか。いんや、何か違う気がする。

ちょっと踏み込んで考えてみると、多少の差はあるにせよ、一定のデータ量を超えた脳ミソDBの中身は、往々にして他人のものと似てしまうらしいという事に気づくのだ。そりゃそうだ、同じ国で同じ言葉をしゃべって同じように生活をしているのだから。いつでも交換のきくDBならば手元にはとりあえず1個あれば充分なわけで、2個目以降の価値なんかもう無に等しいんじゃないだろうか。


自分の脳ミソDBを本当に価値あるもの、交換のきかない貴重な存在したいという、この欲求。まるで、オ○○ーしたいが何者かに監視されているので身動き取れないような気分。そんな事を考えてもんもんと夜が更けてゆく31才、冬。仕事しろよ。

*1:広辞苑が二冊」でググるといくつかヒットしたけど。